People In The Box『Camera Obscura』インタビュー

取材・執筆・編集:柳樂光隆、れみどり

『Camera Obscura』の制作について(後編)

「視点」の意識

ーー 『Camera Obscura』のコンセプトについても伺いたいです。タイトルにカメラ・オブスクラを据えたり、歌詞において並列化されたモチーフであったり……虚像的なものを取り扱っているような印象を受けました。

波多野 アルバムタイトルは一番最後につけたのですが、今回は構造が入れ子っぽいというか、その外側と内側がいれかわるというイメージでした。

ーー 反転ですか。

波多野 「違う視点から見つめる」感じですね。こちらが見ていると思っていたら実はこちらが見られていた、とかそういうことなんですけど。要は主体を移動させるということが起こっていて、主体が変わればみえる虚像が実像になったり、実像が虚像になったりという変化が起こるという意味では虚像的とも言えるかもしれませんが、どちらかといえば「視点の違い」です。

ーー 曲の中で視点が変わるってことですか?

波多野 いえ、曲によってですね。アルバム通していろんな視点が置かれていて、ざっくりいうとはじめは個人の視点から俯瞰の視点に移動していくのですが、それがいつのまにか個人の視点にすり替わっているようなイメージです。こういった構造は『Tabula Rasa』から意識していますね。

ーー 『Camera Obscura』のアルバムジャケットもまさにというか。あるオブジェクトを見下ろす視点から撮っているけれど、伸びる影の存在が大きく映っていて。オブジェクトを横から見た姿が意識させられています。

波多野 ジャケはいつも昔からお願いしているカメラマンにお任せなんです。すごくタイトルと合ってますよね。僕もびっくりしました。

詞に反映される「生活」

ーー 歌詞には、今やここ数年の生活や環境からの影響があると思いますか?

波多野 ありますね。それまで考えてきたことの蓄積もあります。

ーー 例えば環境からの影響はどういうところに出ていると思いますか?

波多野 シンプルに言うと「社会不安」だと思います。というか今の時代に生きていて、どうしてもそれらを無視するわけにはいかないという感じでした。歳をとったのも当然あると思うんですけど、歌詞の書き方も次第に変わってきたと思います。見える景色もどんどん変わってきたし。生活と音楽のつながりってトピックとしていろんな広がりがあると思うんですけど、僕の場合は生活感の反映とはまた違っていて。音楽が「作り物」として現実の日常に関わってくる効力というか、そっちに興味があります。僕はフィクションだからこそ伝わることとかあると思っていて。たとえば身近な人が正論を言ってても全然耳に入らない時があるじゃないですか(笑)。でも同じようなことをドラマとか物語のなかで言われたら逆に説得力をもって伝わったりすることがあったりしますよね。日常と芸術のつながりって、そういう側面の関係性があると思っているんです。そういった意味で(新作が)こういう書き方でこういう内容になるのは自分的にはストンと腑に落ちる。こういう方法以外では書けなかったんじゃないかなと思います。

ーー 波多野くんはいわゆる大都市圏には住んでいないじゃないですか。だから、世の中のことも一歩引いた部分から見ているところもあるんじゃないかと思ったんです。例えば、僕の地元の島根だったらニュース番組のトピックが関東とは違います。「〇〇高校で文化祭がありました」とかやってる。東京でやってるニュースだったら「タレントが映画の試写会に」とかそういう話で、全然リアルじゃないんだけど、島根のTVってすごく身近で生々しい。例えば、そういう環境に身を置いていると東京に住んでいた頃とは世界の見え方も変わったんじゃないかって思ったんですよね。

波多野 作品に影響しているかは別として、僕自身にはすごく影響がありますよ。東京って、ある種の合理性に従って人脈が自ずと形成されていくので、無駄がないんですよ。会いたい人につながる回路がある。でも地方ってそこがもっとランダムなんですよね。本来は出会うはずのなかった出会いみたいなのが、実は地方のほうがあると思います。あれだけ人がいっぱいいる東京では、こういう人とこういう話題で話すことがなかったなみたいなことが結構あって。地方に暮らしてきた人たちは見ている視点や情報の集め方が違うというか……今はインターネットがあるから、情報の集め方なんて平均的になってしかるべきなのに。直電とかすごいあるし(笑)。

ーー うん、 ありますよね(笑)。

波多野 その感じに触れて、シンプルに視野は広がりました。僕の知らないことは本当にたくさんあるんだなという当たり前なことを肌で感じましたね。僕が思うに、いい意味でも悪い意味でも東京ってインターネットに似てる気がしてて。現実にフィルターバブルが適用されているみたいな感じで、けっこう人間関係が似てくるというか、似た考え方の人が集まりやすくなりますよね。でも、地方ではそのフィルターが解除されている状態なので、親しくても思想の違う人がすぐ近くにいたりすることもあって、そんななかでも現実としてうまくやっていこうとすると、いろいろと考えることは多いです。もちろんどちらが良い、悪いではないですけどね。

「作詞」という技術

ーー 提出された曲や素材に、最終的には歌詞をつけるわけですよね。でも、サビがイントロに変わったり、素材が当初とは別の順序や意味合いに変わっていくこともある。そういった曲の変化は歌詞のストーリーや流れには関係ありますか?それとも、曲ができてからそれに対して歌詞をつけていく?

波多野 完全に曲が先になりました。曲と曲順とが先で歌詞が一番最後です。なんですけど、今回はアルバムを作ろうとする前にいくつかの曲はできていたので、曲順が決まった段階で再び歌詞を見直して、一部は作り直してます。ただ、”戦争がはじまる”と”石化する経済”の歌詞はほぼほぼ変わってないですね。”自家製ベーコンの作り方”もかな?逆に言うと、(アルバム制作の)最後の方で作った曲はどういう曲が欲しいかを考える段階で自分がどういうことを書きたいのかも、なんとなくはわかっていた気がしますね。今回は山口くんがいっぱい作ってくれたというのもあるけれど、全然作曲をした覚えがなくて(笑)。どちらかというとずっと歌詞と歌を作っていた感じですね。

ーー 山口さんは曲を送る時に歌詞も想定するんですか?

山口 歌詞は全然想定していないですね。歌詞の世界観や理解度については、それを作った本人である波多野くん以上に勝てる人がいないから。本人が歌詞や曲名をつけるのがベストだと思うし。僕が頑張って、もし彼と同じ解釈ができていたとしても、思うことは違う気がしますから。

波多野 これについては専門技術の問題で、お互いにそういった領域はあります。僕はドラムのことは口出しできないし、ベースのことも……音とか低域の扱いとかは全然わからないし。お互いに「任せるが勝ち」みたいなところあるよね(笑)。歌詞についてはもともと「まとまった時間が欲しい」と2人に伝えていて、2人も全然急かしてこない。任せてもらっています。

僕の歌詞はどんどんフィクショナルになってきていると思います。音楽が主役としてあって、3人で作る音楽の中で歌われる言葉やメロディがどういうものなのかってイメージしていくと、自分の思考とは密接に結びついてはいても、表現としては私小説的なところからはどんどん離れていってます。伝えたいことはあるんだけど、実際に効力をもつように冷静に言葉に落とす。そういった技術のことも考えて歌詞を書いています。

ーー 歌詞に関する「技術」ってどういうことなんですかね?

波多野 そもそも「歌」って一度冷静になって考えるとまあまあおかしい行為だってことに最近気づいて(笑)。メロディに言葉を乗せて何かを言おうとする。あと最近3人の話題に挙がるのが「歌詞書く奴はおかしい」(笑)。

一同 (笑)。

山口 「作詞してる」って、社会的にヘンな類に入るよね(笑)。

波多野 たとえば友達が「彼氏が作詞家で」って言ったら、「ちょっとそれ大丈夫?ヤバくない?」って心配するよねとか(笑)。歌で何かが伝わると思っている人なので、めっちゃ怖い技術を使う、めっちゃ怖い人。まあ僕自身がそうなんですけど(笑)。

ーー (笑)。エッセイでも小説でもコラムでもなく。

波多野 そうなんですよ!そういう「歌で何かが伝わると思ってる奴はヤバい」みたいなレベルの話もそうなんですけど、「歌で何かを伝える」ことに対しては年々意識的になってきてます。音楽にとっての歌詞の役割の可能性は、まだ沢山あると思うんです。歌詞って、基本的には共感ベースの「自分もそう思う」とかを呼び起こす用法が多いと思うんです。一方で、小説や映画ってもっと感動の幅が広い。すごく悪い人が出てきたり、感情というよりは構造を表現していたり。歌詞にももっと色んな表現の仕方があるんじゃないかと思っていて、その可能性を探るためにはどうしても「技術」が必要だと思ったんです。例えば人称の問題。「僕はこう思います」だけじゃなくて、もっと立体的というか、多面的な歌詞を作りたい。さらにもう一方で、音の問題っていうのがあって。歌詞はそのものだけでリズムと意味を持ってます。意味にも弱い・強いのパラメータがあって、曲やアルバムの中で意味性の強い言葉はどこにくるべきかもあるし、音として気持ちいいものを入り口にするとか、押韻もそうですね。そういった色んな要素があるなかででどうバランスを取るかは、ものすごく時間を投じた精査を要するのですが、僕の思う「技術」というのはそういうところで、まさに今回はそれをとことん突き詰めたいと思っていました。突き詰めたいというか、もっと向上させたかったですね。

『Camera Obscura』の明瞭さ

ーー 僕の印象なんですけど、このアルバムでは歌詞が誰にでも読めるものになった気がするんです。ある意味、平易だと思ったんですよ。これまでの波多野くんの歌詞は読み解く面白さや色々な解釈ができることの深さみたいな印象が強かったけど、今回はパッと字面を見たらなんとなく意味がわかる歌詞になっています。これは波多野くんにとっては珍しいことですよね?

波多野 字面のデザイン性みたいなところでいうと意識的です。ポイントは抽象度の扱い方なんですよね。「抽象度が高い」っていうのは音楽と親和性が高くて、「何を言っているかはわからないけれど良い」のは僕も好きです。でも、その抽象度って危なくて、リスナーに委ねすぎるところがある。そこに関して自分でどうベクトルづけていくかは今回のチャレンジのひとつでした。とはいえ、「結果的にこうなった」部分と、「意図してそうなった」部分と、半々かもしれません。昔は自分でも何を書いているかわからないくらいの突き詰め方をしていたから歌詞が抽象的だったんです。でも、今は逆に「自分が何を書こうとしているか」が途中でわかっちゃうんですよ。自分は日常で考えていたあのことを書こうとしているんだなって感じで。その追っかけっこの最後、ここでとどめようって塩梅を探るのはうまくなったかもしれませんね。そういう着地点というのは、なるだけわかりやすいところを目指しているところはあります。

僕が自分の歌詞で心がけているのは、自分の主張の道具には絶対にしないこと。むしろ自分と違う考えの人が「面白い」と思ってもらえるといいなと思っています。そこが1番の基準かもしれないです。やっぱり音楽は基本的に誰が聴いても最高だと思えるようなものになりえるものだと思うんですよね。そういうのを忘れたくないっていうか、大事にしたい。

ーー 今回は抽象度をコントロールして「わかる言葉」を使っていますよね。だから今回の歌詞は勇気が要ったんじゃないかと思ったんです。僕はライター講座をやってるんですけど、わかりやすくてシンプルな文章を書くのはすごく勇気がいるので、みんななかなかできないんですよ。今作の波多野くんの歌詞は意味がわかってしまうものだし、単語の選び方もシンプルなので、「こういうことを感じてほしい」「こういうふうに読んでほしい」って波多野くんが思っているんだろうなと聴いた人が簡単に受け取れそうな文章にもなってると思うんです、それは勇気のいることだと思ったんですね。

波多野 僕は作る時にかなり周りが見えない状態になっているというか(笑)。聴き手にどう思われるかを一度はシャットアウトしたところまで熱中しないと意味がないと思っているので、あまりそういう意識はありませんでしたね。そもそも表現・ものを作るって勇気がいること。さっきの「詞を書いてる奴ヤバい」もそうですけど、ものを作るってそもそもヤバいんですよ(笑)。大人3人が一個の音に対していろいろ議論して……とか、それって覚悟がないとできない。なのでその延長線上にあるかもしれないですね。だし、そこに勇気があるとすれば、きっと自分の尊敬しているアーティスト達の大胆な仕事から習ったものかもしれないですね。もちろん最終的には「これで本当にいいのか?」は熟考しますけど、そこで一旦引いちゃうとやってる意味がないとも思います。

ーー そして『Tabula Rasa』や『Kodomo Rengou』と聞き比べたら、ついている音も明瞭になった気がしていて。音楽のディテールの高度さが目立たないというか、キャッチーだと思いました。すごく削ぎ落とされて、リズムとか和音とかもシンプルになった気がしました。

福井 というか、シンプルに聞こえてるのかなあって。和声的には難解な部分も増えてきてはいるので。サウンド面やプレイの内容で心地よく聴こえている部分はあるかもしれないですね。

波多野 もともとの話をすると、複雑なことを敢えてやろうってことは僕らにはなくて、自分達で「これ面白いかも?」みたいなことをやってみたらそれが結果的に凝ったものだったみたいなことの連続なんですよ。今回もそれは変わりなくあった。でも、信じてもらえるかどうかは別として、僕らはそもそもが普遍的な良さを求めているバンドなので、もしかすると自分達の欲求に合わせて表現していくのがうまくなったのかもしれません。とはいえ、凝っているようには聴こえないことについても実はあんまり意識はしていないよね。

ーー あくまで僕の印象ですが、 今までよりキャッチーだと思いました。音楽的な構造を考えずに聴ける。以前の作品だったら、僕はいろいろ考えて聴いちゃってたんですね。今回は作品としてのまとまりが良いのもあるかもしれませんが。

弾かれる音色と作り込まれる音色

ーー People In The Boxってピアノがけっこう入っているじゃないですか。波多野くん、というかPeople In The Boxの音楽にとって、ピアノって楽器はどういう位置づけですか?

波多野 そもそもは、僕が一番最初に弾いた楽器はピアノで、作曲の時に頭で鳴っている和音って、ピアノの音で鳴っているんですよ。ずっとそれを無理やりギターで鳴らしてきて、ある時にピアノを使うことを解禁したんです。

ーー People In The Boxの制作においては当たり前に使われる楽器になっているってことですか?

波多野 そうですね。僕らの場合はベースとドラムとヴォーカルが固定のものとしてあります。そこから先、アルバムのレコーディングやアレンジの時に関しては「良い感じの何か」によって選択していくというか(笑)。”螺旋をほどく話”のイントロも音源ではピアノなんですけど、ライブではエレキギターを弾いています。使用楽器の選択は行き来するんですよね。曲の根幹を崩さない限り、アルバムでのアレンジはそれぞれの曲の欲するものに従っている感じですね。

ーー インタビューに先んじて過去のアルバムをまとめて聴いていて、『Kodomo Rengou』の1曲目”報いの一日”のギターがオーケストラの弦みたいに聴こえるってメッセージを波多野くんに送ったんですけど。そうしたらあれは弦じゃなくて、なんだったんですっけ?

波多野 管楽器ですね。バリトンサックスとか、ホルンとか。ライン的には弦っぽいかもですね。

ーー つまりギターは別の楽器を置き換えるように使うこともある。でも、ピアノはいつも思いっきりピアノっぽい使い方なんですよ。

波多野 それはシンプルな話で、僕がちょっとだけ弾けるから。逆に言うと、別の楽器を真似ているときは、その楽器を弾けないから無理やりギターやベースでその音を出そうとしているんですよ(笑)。面白かったのは、”石化する経済”に入っているコントラバスに歪みをかけて作ったぶっとい胡弓みたいな音。僕はもともとその旋律を、トランペットのサンプル音源で入れていて、すごくおしゃれな良い感じだったんですよ、……シカゴっぽい……スリルジョッキーっぽい感じで。

ーー ポストロックっぽい。

波多野 そう。で、「これどうしよっか?」ってなった時、でもサンプル音源でアーティキュレーションあったらPeople In The Boxの制作で導入するのはやっぱりだめだよねってなり、別の楽器でやろうと。だいぶムードが変わったけど、この形が良いねって落ち着きました。

ーー トランペットがベースに落ち着くのはすごいですね。

福井 (笑)そうですね。オクターブ上を足してみたりとか。歪みをかけて、管楽器の自然な歪み感というのも足してみたり、けっこう弄ったんです。トランペットにはならなかったですけど、また別の、ハーモニウムみたいな民族っぽい音ができて、僕としてはめっちゃ気に入ってます。

波多野 そういう意味での僕らの特徴として、スタジオで遊びまくる。映像で見たら信じられないような光景とかあるでしょうね……今回の一番は金属バットかな(笑)。

3人 (笑)。

波多野 山口くんが金属バットにコンタクトマイクつけて、ファズかまして、アンプから音出して。

ーー 例えば、 前作の『Tabula Rasa』では、ピアノでもすごく変なコードを押さえている曲がありますよね?すごく濁った響きの。

波多野 あれはギターでは弾けないんですよ。ギターだと、コードとしてけっこう汚く聞こえる。

ーー ピアノだと綺麗に濁りますよね。そういうのが以前はかなりあったんですけど、今回はピアノの使い方がすごくシンプルなんですよ。

波多野 今回は単純に、僕がギターばっかり弾いてたからかもしれないですね(笑)、ここ数年ボーカルとギターを練習するので精一杯になっちゃって、ピアノの頭にならなかったところはあるかもしれないです。

ーー でも、それが明瞭さに繋がってる気がします。前2作だと、その響きがどんな色味なのかは聴いた人次第みたいな曲が多かった気がします。今回はそういうのが少ないんです。だから音抜けが良いっていうのもあるかもしれませんね。音楽的にもクリアな印象ですし。

波多野 そうかもしれないですね……。確かにピアノの帯域って、和音的には気持ちがいいけれど、すごく支配が強い。『Tabula Rasa』は真ん中にピアノがどんとありましたもんね。確かにそれは大きな違いかもしれない。

ーー あと今回は制作時の様子をYouTubeに上げています。作る過程を見せることに意図はありますか?どういう様子で作っているのか、これまではあまり明かされていなかった気がします。

山口 出していなかったのは、隠してたわけではなくて、今回は単純にプロモーション的な所の要素が大きいです(笑)。僕らのレコーディングではコンタクトマイクをバットやシンバルにつけたりとか……サンプル音源を使えば一発で録り終わってしまいそうな音を作ってみたり、そういう工夫は随分前からやっていたんです。その様子を公開してみたら面白いかもってなんとなく思っていたので、今回出してみました。

ーー コントラバスの音を弄り倒している20-30分間の映像もありますよね。

波多野 まさに”石化する経済”じゃない?

福井 さっき言っていたやつですね。

波多野 撮れてなくてすごく残念だったのが……”スマート製品”のサントゥールみたいな「トゥルルル……」って音。それは福井くんがベースのプラグを弦の上にバウンドさせて作ってるんです。

一同 (笑)。

福井 そこに注目して聴いてほしいですよね(笑)。

ーー 今はそういう音源は買ったらいくらでもあるじゃないですか(笑)。安いし、バリエーションもあるし。

波多野 僕らはそういう一見ムダに思える作業との積み重ねによってできる総体のいびつさが好きなんですよね(笑)。

ーー それは作曲の一部って感覚ですか?それともレコーディングのプロセスの中のひとつ?

山口 レコーディングのプロセスですね。『Citizen Soul』(2012)くらいから?『Family Record』(2010)かな。井上うにさんとやり始めたあたりだから、その頃ですね。ふすまをタワシで擦ったりとか、缶を紐で大量に繋げてカラカラ鳴らしたり。

波多野 最近は楽しいからやってるのもあるよね(笑)。そういうのって大切だと思ってて……みんなでやっているなかで次第に謎が深まっていくんですけど。自分達でも説明できないけど面白い、みたいなものってすごく魅力的で、「論理的に意味があるから入れよう」を超えてくる何かがあって(笑)。そういうものがやってて一番面白いんですよね。

山口 楽器の音の場合は合わなかったら録音には入れないんです。だけどもし、金ダライをバンと叩いた音が録れていたら「合わなくても合うようにする」って感じになるんですよ(笑)。そういった動機を起こさせるって意味でも強いですよ。

ーー 自分達で作ったものに対しての愛情が。

山口 絶対に使うもんね。こんなの使えないだろ!じゃなくて、使うんだよ!ってなる(笑)。

ーー なるほど。入れなきゃいけないっていう謎の縛りが、さらに音楽を変えていくわけですね。

3人 (笑)。

People In The Boxの活動スタイル

長く続けてゆくための元気と体力

ーー 現状、コロナをはじめとして大変な社会状況でバンドを続けていけているのはなぜですか?コロナ禍を経てもモチベーションが落ちないし。沈んでしまう時期もあるけど、割と前向きに活動をしていた印象があります。その強さみたいなものって、どういうところからきていると思いますか?

山口 ものすごくシンプルに演奏するのが好きなんだと思います。僕は2ヶ月スティックを持たない時期もありましたけど、結局戻ってきたのは演奏するのが好きだからだと思いますね。

ーー スティックを持たないくらいの時期って「これがずっと続くんだろうか」みたいには思いませんでしたか?いつかは戻るだろうと思って?

山口 いや、戻ったらやるしっていう感じ。だからきっかけとなった出来事なんかも無かったんですよね。曲作ろうかなって感覚にいきなりなって、となるとスティックも持たざるを得なくなる。

ーー 誰かとコラボしたり、外からプロデューサーを入れたり、そういったことをせずにずっと続けていますよね。どこかで変化を入れたいってバンドは割といるのに。

波多野 もうそれなりに長くこの3人でやってますけど、僕に関していえば、単純にメンバー2人にまったく飽きていないんです。各々の向上心がそう思わせてくれてるんじゃないかな?僕ら、あまりそういうふうには見えていないかもしれないけれど、ものすごく上手くなりたいという欲求があって、演奏のみならず楽曲制作についてもなんですけど、ここで到達したなと思うことがないというか。

ーー 全員がレベルアップしていくから飽きない。

波多野 3人とも別々の理由でどんどん変化している。変化できているのであれば外からミュージシャンを入れる必要もない。それにお互いにお互いをよく見ているから、ちょっとした違いでもわかる。わざわざ口にはしなくても、上手くなってるなとか、こういう引き出しを持ってたんだとか、いまだに発見があるんです。そういうのがなくなってくると難しいんでしょうね。これはバンドだけじゃないですけど、人間関係においてお互いを注意深くみることは大切だなと思います。僕はそもそも2人に対するリスペクトもあるから、いまだに新鮮さを失わずに3人だけでやれているのだと思います。

ーー 自分にとってのロールモデルとかあったりします?

波多野 この間、村上春樹が新しい小説を出したんですけど(「街と、その不確かな壁」)、その小説は、30代の頃に書いて、本人曰く技術が足りずに出来に満足できなかった小説の書き直しが元になっているらしいんです。40年前に一度完成させたものを70歳を超えてから再び手を入れ始めて、5年かけて書いた……その執念もすごいなと思いましたし、強迫観念的に書きたいことが変わっていないという事実もはや怖かったですね。村上春樹って作家論みたいな本もいくつか出してますよね?その中で「自分の文体を進化させていく」ことへの言及がよくされていて、僕はそれにすごく刺激を受けました。昔書きたかったものが今なら書けるかもしれないと判断してチャレンジする姿勢など、おこがましいですが彼のああいった姿勢には、僕はすごく影響を受けてるなって。

ーー 村上春樹はそもそも、長く書き続ける前提で生活を組んでますよね。

波多野 作家ってドストエフスキーだったり、ヘッセだったり、晩年に長くてワケわからない作品を出すことがありますよね。僕ああいうのにすごく憧れているので……。でもそれってサボり続けていたらできないわけじゃないですか。個人的にはモチベーションもそうだけど、自分では長い目でみてやっていくタイプのミュージシャンだと思っています。でも決して続けることが目標ではなくて、少しずつ山を登っていくような意識ですね。

ーー 僕も30代後半くらいから、村上春樹の気持ちがよくわかるんです。文章を書くのも体力がいりますから。僕は10年間くらい、毎年1800kmくらい走ってるんです。体力があればあるほど書けるって思うようになったので体力だけは維持しようとしているんです。体力がないライターから止まってしまったりするのを見ているので。あと、食えなくて痩せていくとやばいなって印象があるので食うようにはしてますけど。

波多野 アーティストも体力いるよね。そこはもう、正のループを作っていかないといけない。体力あるから行動する、行動するのが楽しいからご飯を食べて寝て体力つける……そういう良いループを作っていかないと、みんな病んでいきますよね。

ーー 身体に余裕があるから脳も動いてるって状況じゃないと「金属バットにコンタクトマイクをつける」みたいな方向には踏み出せないじゃないですか(笑)。

一同 (笑)。

ーー その金属バットの話を聞いてて思ったんです。すごく疲れている編集者とミーティングしても、最短距離の話にしかならないんですよね。

波多野 そういう意味で言うと僕らって、創作の中で使う頭にはすごく余裕があるんですよ。遊び心みたいなものをしっかり担保できている。

ーー 遊び続けるにも体力がいるんですよね。ライブに足を運ぶのも誰かに会いに行くのも余裕がないとできないので。

波多野 そうですね。必死でやっているところに遊び心を含められるかというのは、余裕を持っていないとできないですもんね。

山口 他のバンドで「金属バットの音ちょっと入れて良い?」なんて提案したらダメって言われそう(笑)。

波多野 僕らにとっては合理的なんです。その工程が自分達の音楽の面白さにとっては大切だと自分たちでわかっているんですよね。主観的な判断と客観的な判断が一致するのはすごくつまんない。結局僕らは自分達の文脈を作りたいと思ってるんです。あえて世の中の文脈と逆を行きたいとかじゃなくて、自分たちの文脈を作るために、自分達の楽しさの中で何かを発見していくということを、自ずとやっている気がします。だから、メンバーの誰かから出たアイデアをひとりが意味不明だと感じても、とりあえずやってみる。そういう時間を設けることが僕らにはできるんです。

ーー 関係性と積み重ねがそれを可能にしていますよね。そういうプロセスも必要だっていう合意がメンバー間でとれているから。一人が意味ないじゃんって思ってたらできないですよね。

波多野 お互いのスペースを許す、合意みたいなものを僕は感じます。僕の任せてもらっている部分の大きさを思うと、信頼を感じるんですよ。デモ音源のやりとりでも、僕がかなり待たせることがあるんですけど、ふたりは待っていてくれる。

ーー 「やっぱりバンドなんだな」って思いますね。しかも、多くを自分たちで決めて、自分たちの手で行っている。ライブやツアーもそうですよね。

波多野 大きいプロジェクトとして勝手に動いていくってことはないですからね。

ーー 「 自分たちで主導権を握って、自分たちで考えている。自分たちがやりたいことをやって、それを求めている人に適切に届ける」みたいな回路を作ろうとしているんだなと思って僕は見ています。People in the Boxの音楽はそういう活動だからこそできる音楽でもある気がします。自分たちのやりたいことを自分たちの求めるスケールでやるみたいなところと、バンドの制作の仕方が繋がっているような気がするんですよね。

波多野 そうですね。でも活動に関してはいまだに模索していて。自分達はとにかく聞いてほしい、本当にたくさんの人に聞いてほしいって気持ちがありつつ、届くべき人にまずは届いてほしいって気持ちもありつつ。そこに関しては、まず前提として地に足つけて活動していくことが大事で……大きな賭けに出るような動きを、自分達が継続的にやれるかというと、そうとは思わないから。自分達がいろんな意味で健全に、いろんなとこで間違ったことをせずに活動していく中で、作品の数がどんどん重なっていって、それを総体として見てもらって、評価してもらいたいという気持ちが、僕にはすごくあります。今作がどうだっていうよりも、作品を重ねてきたバンドとしての強みがすごくあるとも思っています。変化する部分もあれば、変化しているからこそ変わらない核の部分も感じられると思うし。要素としての僕らの個性を言い当てにくい音楽をやっている自覚はあるんですけど、一方で普遍的なものを作りたいという気持ちでやっているのも確かです。それが伝わるといいなと思いながらバンドをやっています。すごく難しいですけど。

ーー そういう模索や発想を継続的にしていくから、音楽がまた独自なものになっていく。People In The Boxっぽくなっていくわけですよね。

波多野 さっきの作家の話に戻りますけど、体力ある作家がそのまま残っていくと、相当ディープな内容の作品が上がってくると思うんですよ。歌詞を書いているとわかるけど、身体が健康でないと、極端なことを考えられなくなってくる。一般的には病んでる人が極端なことを考えているようなイメージがあるけれど、それってただ弱っているだけというか……。

山口 エネルギーのあるものが出てきている印象はないかもなあ。

ーー 弱っているときにうっかり極端さが漏れ出たり、言わなくて良いことを言ってしまうみたいなこともありますしね。

波多野 僕が書きたい歌詞って、実は意外と誰でも発想はできるけど、発想を形にするためには健康に気をつけていないと無理だとたまに思うんですよ。健康体というよりは、前向きさというか。

ーー 波多野くんが出力するものはややこしいから弱ってそうにも見えるけど、本人自体は常に前向きですよね。

波多野 そうなんです。アウトプットするのって本当に体力がいるし、前向きじゃないとやってられない。むしろ絶望と向き合うのって、前向きであるからこそできること。無理に希望がどうだとか言い出すほうが、現実と向き合うほどの前向きさがなくなっていてヤバい状態なんじゃないかと個人的には思います。

ーー コンスタントに少しずつ前に進んでるPeople In The Boxは特別なバンドだと思うんですけど、要は元気と体力があって、前向きな人たちだからだと。すごくしょうもない結論に辿り着いてしまった(笑)

一同 (笑)。

波多野 でも、案外芯食ってるかもしれません(笑)。

[収録曲 / 全9 曲]

  • DPPLGNGR
  • 螺旋をほどく話
  • 戦争がはじまる
  • 石化する経済
  • スマート製品
  • 自家製ベーコンの作り方
  • 中央競人場
  • 水晶体に漂う世界
  • カセットテープ

CD 『Camera Obscura』

品番:BXWY-033 販売価格:3,000円+税 発売日:2023/05/09

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